今、2匹の猫と暮らしている。すでに1年半が経った。3か月預かることになり、そのままうちで暮らすようになった。なりゆきはいつか書きたい。この2年、これからの生き方の基盤を築くため、社会福祉のお世話になり、職業訓練を受け、新しい場で生きようと工夫していた。そして、現在もその試行錯誤の最中にいる。週5日活動してあたりまえの暮らしの中で、文章を書くこと、というか、A5サイズのノートに吐き出すことは停滞していた。毎日のように書きなぐっていた頃は、頭の中の空間が、外界からまあるく守られていて、「私」が独立していたように思う。それがこの2年、「私」は消えていた。職を得る、つまり、社会的な公の人物を造る作業をしていて、どんどん「私」という空間は侵略されていった。社会に存在して良い人物になるために、魂の生える土壌である「私」を耕すことに手が回らなくなった。とある場を辞したのは、このままではどうせまたドロップすることになるし、ドロップして何がいけなかったんだっけ。もう「私」を侵して生きるのやめたんだよな。何やってんだ。馬鹿らしくなったから。最低限度の身入りで暮らすことへの怖さは、昔ほどはない。そう暮らすことを体験したし、もう意識の中にあるから、恐ろしくも忌み嫌う生活でもないことがわかっている。最低限が保障されうる社会にいることも、今は知識として十分スクロールしてある。
だから、猫が重荷になることもなく、この二人は私の暮らしそのものだ。いっしょに暮らすことを鍛錬しなければならなかった時期も超えて、この子たちは「私」の空間と融けている。
そんな中、あ、PCで文章を記録してみようという考えがじわじわと迫ってきた。やっと戻ってきた。サーバー契約を解除しなかったのは、いつかはやるんだろうなと常に片隅から言ってくる何かがいたから。手書き文字は、認知機能がひしゃげてしまったことを突き付けてくるから、哀しくなる。キーボードをカタカタ鳴らして文字にするのは、軽やかで乾いている。心を情報にできる。乾燥機にかけながら外出ししている。ラクだ。
これからしばらく続けるために、辻褄合わせの言葉をこねくりまわすのをやめることにした。ここに来るときは、公の自分を造りに来ているんじゃないからそれやめろ、と注意勧告をする。苦手なんだ。話すことも社会にそぐう文体を借りることも。もう、今日息をして、猫が満腹になって眠っているのを確認できればそれでいい。
今日はここまで。(1時間弱)
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