間合い

正気をつなぎとめるために、年に一回でもいいからここに残す。ということをしているのか。春がきてしまって、葉桜になっていて、今日は冷たい雨の日で、満月らしい。過ぎた日々がまともだったか振り返る。サーバー代にひと月千円以上もかけていた。もったいない、か?このペースでも続ける価値はあるのか。ないのか。

前回の投稿から今の間で、ささやかながら自分にとっては大きな変化があった。家計簿をつけはじめた。今のところ続いている。一日中、支出に気を配り、夜に手書きで記入する。以前はもっぱら体調と感情的なことを吐き書き散らしていた。その習慣により一日の中にこじ開けられた貴重な時空間に、家計簿記入を当て込んだ。腹の立つこと憂鬱さを思い返し再演しながら無理くり体調がどうだったかひねり出すよりも、どうやら心身に良さそうだ。支出に意識を向けるだけ。記録したお金の動きが私の状態をおしえてくれる。はからずも体調不良の根源である感情から距離を置くことができているのだ。瞑想なのかもしれない。認知の歪みを正すにはまず、私さんから離れることだ。それができないから医者に頼り、眠り薬を使ったりして仮死している時間をなるべく長くしてやり過ごすのだ。私さんには一日に一度、かならず冥土へとんでもらう。なるべく長く。8時間でいい。

週末に今週の決算をして、何にお金が流れていったのかを観る。外食は不調のバロメーターだ。体力が追い付いていない=感情が不安定。食べたものを思い出せなかったら最悪。食べて幸せな気分に浸れていたら単に元気だった時。私という人はその時なにを思っていたんだろうかと想像してみる。

直接感情を観ようとしても当の本人だから捻じ曲げられる。捻じ曲げられなかったとしてもだ、ありのまま書けたら書けたで心に焼き印をじゅうじゅう押しているみたいなものだから痛くてできやしない。実際、読み返してみるとやっぱり嘘ばっかりだった。ポジティブに、濁して、まろやかにしたり、真っ赤な嘘を祈祷のように捧げていたりする。おまじないを唱えるように嘘の言葉で蓋をして、本当の感情はかえって抑圧されている。客観的な言葉となって現れていることは稀であった。急性期の、ほどんど意識がとんでいる状態で殴り書きしていた時期だけがまともな記録だと思える。

でも、とにかくなんか書いておく手書きで、という行為を4年続けてきよかった。だからこそ、家計簿もつけられるんだ。通院治療前だったら日々同じことを繰り返すことなんか全くできなかった。そんなの最も苦手で忌み嫌って避け続けてきたことだ。数年をかけての療養がなかったらできるわけがない。経て、今だからやっとなんだ。今からは、支出記録によって間接的に自分を観察する。それができる。素晴らしい。やっと人生のようなものが始まります。

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